昭和30年頃摂津富田駅の北側に
1件だけ屋台があったそうです。
その頃のサラリーマンは500円札1枚で
食べて一杯飲んで帰るのが楽しみだったそうです。
中学の頃はクラブでテニスをされていたそうです。
本当はバスケットをやりたかったそうですが、目が悪くメガネではプレーしにくいという事で、テニスに転向されたそうです。
リクルートコスモセンターコートマンションの場所にはご自宅のテニスコートがあったそうです。
マンションの名前の由来はそこから来てるのでしょうか?
小学校4年生には中学受験にそなえて勉強をし始めたそうです。
塾などもちろんなく、上の中学を目指す人達は、学校に残って勉強をしたそうです。
先生も子供を育てる事に情熱を持ってくれていて、親が子供を思うような感じで親身になって教えてくれたそうです。
子供も先生には尊敬の念を持っていたそうです。
昭和初期の頃の学生は今のJRで通学するとき、電車の真ん中より前の車両は女性。真ん中より後ろの車両は男性という風に分かれていたそうです。
気になる子がいる人達はちょうどその真ん中の車両のデッキで話をしたもんだそうです。
子供の頃(大正13,4年)は、女の子は羽根つき、男の子はこままわし、竹とんぼ、紙飛行機、ボール投げをして遊んだそうです。女の子は着物を着ていたそうです。
夏は柳川で泳いだりもしたそうです。
中学では勉強ももちろんしたけれど
体育では行軍の授業もあり、だんだん戦争に向かっていく感があり、厳しかったそうです。
男子は武道(剣道、柔道)も必須だったそうです。
大学は兄と同じように東京へ出たかったそうですが、病気で京都に入院されていたお母様を思って、京都の大学に行かれたそうです。
戦争が始まり、ご自身は航空隊として台湾に行かれていたそうです。
(写真を見せてもらいましたが、長身でとてもハンサムでした)
終戦前にお見合い結婚をされたそうですが
なんと、そのお見合いは、自分に代わってお兄様に行ってもらったそうです。
お兄様の勧めで、何もとまどうこともなく、結婚を決められたそうです。
肉親で第三者が冷静な目で選んでくれる人に、間違いは無いと思われたそうです。(そんな時代だったと)
5年前に奥様に先立たれるまで
仲のよいご夫婦だったそうです。
今は寂しくて、ときどきここへ来てお酒を飲んでいらっしゃるとのこと。
JRの摂津富田駅(約4000坪)は
地元の有志の寄付によってできたそうです!
今のコーヨーあたりには戦前
野口牛乳という牧場があったそうです。
昭和39年の東京オリンピックのときに、景観が悪いとの事でその屋台もなくなってしまったそうです。
昭和40年頃は、摂津富田駅のまわりもまだ舗装されていなくて
がたがた道。雨の日はタクシーも泥だらけだったそうです。
松下と、高槻市が融資して駅前の舗装をしたそうです。
編
集後記
30分か1時間のつもりが2時間も時間と使っていただき
ご自身のことや富田の昔の話を聞かせていただきました。
とても楽しい時間でした。ありがとうございました。
続きはまた今度...との事でした。
昭和のはじめ
通信手段として、電話ができたそうです。
役場が1番。郵便局が2番。
寿酒造が3番。だったそうです。
ドラマで見た事があるガリガリとまわすあの電話。